青山真治監督作品『AA音楽批評家・間章』を新潟市で上映することが決り、チラシとポスターを担当してくれと、32年ぶりに本間アキラからたのまれた。
青山真治監督作品『AA音楽批評家・間章』は、1978年、32歳で夭折した『間章』(あいだ あきら)とかかわりのあった12人へのインタビューで構成されたドキュメンタリー映画だ。 6年前に制作途中のパイロット版(約20分物)を見たことはあったが、完成したものはまだ見てはいない。 完成版は6章からなり全7時間半の上映という長編である。
1964年生まれの青山監督は『間章』が亡くなった1978年では14才で、生前の間章には出会っていないといわれている。 そんな青山監督がなぜ『間章』をリスペクトした映画を作ったのだろう、というやぼな問いを発してしまいそうだが、パイロット版は大変興味深く見た。
また、この『AA音楽批評家・間章』という映画には『間章』本人の映像は一切出てくることはないという。 『間章』に関わった12人の生記憶や思いを語らせ、そのイントネーションや沈黙をあらわにしながら、それぞれの『間章』への関数を現代に引きずりだし、その関数を青山監督がさらに微積分して、その計算に443分かかったということなのであろう、7時間半という光の明滅とおとなみの虚空は新しい命を産み落とすのだろうか。
『音楽において演奏者にもプロデューサーにも観客にも批評家にも絶対に特権がないのだ・・・』
これは『間章』の言葉だ。
青山真治監督作品『AA』を新潟で上映する行為全てが、『映画AA新潟上映実行委員』の新しい創造行為で、あらゆることが許されている。
またスタッフは10代の若者から60代のジジイまで全てクソで、全てゴールドであり、おぼろなベクトルをたよりにそれぞれが勝手に動いている。
あらためて何かを描こうと思ったのだが、遅筆の私では上映日まで間に合うはずもない。それでは『間章』の写真か青山監督の写真を使かおうと思った。
生前、本人が気に入っていたという『間章』の写真と青山監督の顔写真ものせようと提案したが、『青山監督の顔写真を載せると、監督は酔怒(すいど)するだろう』 とタオさんに脅かされた。なんだかよく分からないが、酔怒には弱いのであきらめ、『間章』の写真のみでゆくことにした。
日本海の渚を右に、新潟の寄居浜を歩く『間章』の姿が写っている。背後の砂山の傾斜には、冬を耐えた草花と半分埋もれた流木や欠け茶碗があり、異国の看板も突き刺さっている。中途半端なものは寒波が吹き飛ばし、残されたものたちが、あたかも『間章』を祝福しているようだ。 いつもなら、帽子から足先まで全て黒か、全て白の夏衣装だった。珍しくこれは陰陽ファッションでタバコをくわえている。
31歳の『間章』の体重がもう少し軽かったら、可能性はあった。
亡くなる前の年の、1977年の夕暮れ、寄居町を歩く少女が拉致され、袋詰めのまま、この斜面を越境した。以後、マ・ン・ギ・ョ・ン・ボ・ン・ゴ・ウは佐渡汽船より華やいで、毎年新潟の中央埠頭に接岸した。
その四半世紀後の2002年、リオネル・デュモンは青山監督の新潟ロケ現場わきを自由に闊歩し、中古自動車の輸出を手伝っていた。
「サミール」と名乗り、まじめに働いていた彼は、その後ドイツでフランス過激派組織「ルベグルーペ」に所属するアルカイダ幹部の容疑で拘束された。
日本のエネルギー源の多様化を企て、メジャーの逆鱗にあい、失脚・病殺させられた越後の政治家は首都圏と日本の西海岸を新幹線と高速道で直結させた。
以後、港町新潟は国際謀略都市のスキルを爆発的に向上させ、2007年、晴れて本州日本海側初の政令指定都市となった。
平安時代から蒲原津(かんばらのつ)とよばれたこの港町は平成メタボ合併で面積は東京都の3分の1となり人口は80万人を越えた。
日本二大河川(信濃川、阿賀野川)の氾濫と蛇行に翻弄されながらも、人々は河口に住みつき、水路と海路の要であらゆるものを受け入れ、吐き出し発展してきた。
とりわけ、信長、秀吉、家康に仕えた堀家の奇才堀直竒(ほり・なおより)による1617年の町建が自由都市新潟のカタチを作った。13才で秀吉の小姓に抜擢された直竒は運と才能で戦国時代を生き抜き、元和2年(1616)越後長岡の領主となった。築城と城下の整備を行ない、60Kmはなれた外港新潟町の町建を命じた。
直竒の新潟町建は、自由に人々を集め、あらゆる諸税を免除し、宗派は商と生活力のある門徒宗を中心に招聘した。極め付きは空き地や空き家があれば勝手に店にして住みつけば自分のものになった。 関ヶ原で敗れた浪人や、近郊のあぶれ者たちが続々と集まり、ここにアナーキー港町新潟が出現し、約3000人の町が江戸中期には20000人を超えた。
二大河川と日本海の交差する外港新潟町を堺、長崎を越える自由商業港湾都市にし、大陸交易を視野に入れていた直竒ではあるが、鎖国と中央集権化を進める幕府の策略にあい、石高を上げ、北の村上に実質左遷させられてしまった。
その後、直竒の新潟町は鏡写しのように対岸の白山島、寄居島に移転し、抜け荷、北前船でおおいに栄え、おのずから色町も沸騰した。 港町新潟の色町は全国番付で祇園新地の次の4位・前頭筆頭と記され、多くの文人や明治政府の高級官僚まで熱く溶かし、明治後半まで活況を呈した。
掘割を起こし水路を整然と張り巡らせた水の都新潟は人口2万人あまりを擁し、さながら東洋のベニスといっても過言ではなかった。
1768年、長岡藩の御用金徴収に対し、涌井藤四郎らの町人が蜂起し、約2ヶ月間に渡り町民による完全な自治を行った。
1871年のパリコミューンをさかのぼる103年前のいわゆる『新潟明和騒動』である。
港町新潟は殿様や突出した大旦那が独裁的に町を治めることはなかったが、中旦那の特権検断職グループが町を仕切っていた。 直竒の町建から150年も経てば、検断職グループ既得権守旧派と私腹を肥やした町同心、長岡藩の面子も絡んで検断職でない小旦那涌井藤四郎らの首をはねて終わりにしてしまった。
その75年後、幕府財政悪化により、取れるとこから取ろうと港町新潟は江戸幕府直轄の天領(1843)とされ、遠国奉行・新潟奉行によって明治元年まで支配管理された。天領により幕府歳入が2倍になったと、1852年佐渡鉱山と新潟港の地の利を見聞した吉田松陰が記している。 20000人の新潟町は長岡藩役人数名と20数名の同心等で十分平和に治めることができたが、天領地新潟では100数十名の幕府要人らで固め税金を吸い上げた。。
1868年、戊辰戦争で、新潟町は奥羽越列藩同盟軍の武器弾薬の補給基地となり、奉行の役人達は江戸へ逃げ帰えった。 かわってオランダの武器商人エドワ−ド・スネルが暗躍したが、間もなく新政府軍に占領され、河井継之助の長岡城も落城し越後は明治となった。
明治2年、スネルを駆逐したイギリスは『間章』が眠る西堀の勝楽寺に領事館を設置した。
日米修好通商条約によって、1858年開港五港(横浜・箱館・長崎・神戸)の一つに指定され、名目上は世界に開かれた港町新潟になった。しかし、水深不足で佐渡の両津港を補助港としたが、貿易は不振を極め、国内航路も電信と陸路の発達で芳しくなかった。
明治3年、新政府の手で全国8カ所 に半官半民の為替会社がつくられ、新潟の有志は当時の金で20数万円全額を集めるが、話はうまくゆかず瞬く間に頓挫し、全てを失った。 1874年(明治7)に開業した新潟第四国立銀行の資本金が20万円であれば、以後、新潟商人はお上を信じることはなかった。
日本進出に出遅れたイタリアは太平洋岸ではなく日本の西海岸 新潟港町に頻繁に来航し、サーカス興行に来ていたイタリア人コック、ピエトロ・ミリオーレが西堀にイタリア軒を開業し、今もホテルとして残っている。
明治11年に人口が5万人になった新潟町を訪れたイギリス人旅行家イザベラ・バード女史は、水路は整然と整備され日本で一番清潔で美しい町と書き、 昭和10年のブルーノ・タウトは日本で一番汚い町といった。(大正11年の大河津分水完成後、信濃川下流の水位が下がりはじめ新潟の堀の流れが滞りはじめた。)
1931年初代清水トンネルが開通。新潟港から日満航路が週5日就航し、東京から満州まで最短ルートとなったが、太平洋戦争で機雷封鎖され、不発弾が今も数個川底に眠っている。
山本五十六生誕の長岡市は無差別空襲にあい。 原子爆弾投下候補地として温存された新潟市は無差別空襲をまぬがれた。
1945年8月6日に広島に原爆が投下され、9日に長崎原爆投下の報が伝わると、県は8月11日に、「原爆疎開」命令を下した。市民は新潟市から脱出し、ほぼ無人状態となった。
私の父は微かな荷物を砂地の庭に埋め、逃げる途中の越後線客車の中で終戦の知らせを聞いた。原爆疎開で都市が空になったのは史上唯一の出来事だった。(原爆疎開から1年後間章誕生)
終戦から約7年間アメリカの占領軍,GHQによるウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムがおこなわれ、子供の私は何も知らずに近くのアメリカ文化センターでアメリカの素敵な生活絵本や16mmフィルムの白黒初代ミッキーマウスを見せられ洗脳させられた。 三角顔でハチャメチャ アナーキーな初代ミッキーは結構面白く、浦安の丸みをおびた柔でやさしく、最後には必ず魔女をやっつけるミッキーマウスには今だに違和感が残る。
1955年の新潟大火は小学5年生の間章の家の横を燃え盛り、新潟市中心部をほぼ消失させた。(消失家屋1000戸・罹災人員6000人)火元はそのアメリカ文化センターと真夜中2時には無人となる県教育庁のあいだから漏電出火とされているが原因は不明。
新潟アメリカ文化センターはあらゆる書類を焼き尽くし、その役目を終え、元の場所での再開はなかった。 ハチャメチャミッキーにはそれ以来会う事はなかった。
戦後、堀の水位はますます下がり、時々巨大ポンプで流水させていたとはいえ、一部はタウトのいうとおりの状態になっていた。
市民の人糞を運搬していた専用肥やし船は信濃川河口近くでそれを捨てていたが、水位下降とバキュームカーの出現で数隻の船は堀にそのまま放置された。朽ち果てた蓋に子供らは石投げをし、ストライクな石は濃厚な汚物の浮力で浮いていた。市は来るべき車社会と下水道化に備え、堀にヒューム管を設置し埋めたてて道路に変える方針に決めた。
港町新潟はバードが美しい町と称え、八千八川と歌われた掘割をいとも簡単に節操もなく全て埋め尽くし、1964年の新潟国体御出席の天皇陛下と,
終了翌日の新潟大地震を迎い入れた。
1964年6月16日に起こった新潟大地震(M7.5)は石油タンクを爆発させ、12日間燃え続けるという史上最大・最悪のコンビナート火災をおこした。 6km先の巨大なキノコ雲はあたかも原爆疎開を再演しているようであった。
『間章』も見上げていたであろうし、大河の埋立て地域に建てられた間章の高校は液状化現象で地下から泥水が2mも吹き上げ、亀裂が走り、大きく傾いた。本間亮と亀田幸典は『AA』でそのキノコ雲にふれている。(新潟地震の1ヶ月後青山真治監督誕生)
2004年中越地震、2007年中越沖地震があったとはいえ、1964年の新潟大地震の震源地は新潟市から北へ50km先(粟島沖)の日本海底30kmであり、新潟市直下の信濃川断層は地震空白域である。そろそろ、東京と新潟も地圧のストレスが溜まっている
諸税を免除し、自由に人々を集めた直竒のアナーキー新潟町は、港町特有の雰囲気を持ち、あらゆるものを受け入れ、吐き出し発展してきたが、同時に内部矛盾も拡大させ、自ら傷つき、為政者にもつけ込まれた。 長岡藩にすあい金や御用金を取られ、異議を申せば処刑された。 抜荷で言いがかりをつけた江戸幕府には天領地として侵され、 占領された維新政府には為替で嵌められた。 原爆疎開で九死に一生を得、見えない暴力の予感の中なかで、戦後は欧米に懐柔されてきた。
あるときは、誇りや規範をかなぐり捨てた。 よく言い換えれば、意味のない誇りや規範に囚われることもなかった。流人とゴールドの佐渡が島を眺め、決して朝日を見ることのない日本海の幸と背後に豊かな水田持つ河口の人々はしたたかに生きてきた。
こんな港町新潟を『間章』は呪いながら愛していた。
港町新潟にいた17才のロックバンド、『ベガーズ・バンケット』を1971年に引っかけ、1976年、彼らのLPレコードをプロデュースし、ライナーノーツを書いた。(BEGGARS BANQUET「HARD・TREATMENT=過激療法」)
『間章』は港町新潟に苛立ちながら、というより世界と自分に苛立ちながら第1章をかいている。
2章、3章は普通の文章だが、1章は間章の独り言のような、詩のようなもので、私はやっと最近最後まで読むことができた。
今までこの第1章は読み終えることができなかった。どういう訳か知らないが、必ず第一章の途中から読み進むことができなくなり、紙面を放り投げてしまった。何度読み始めてみても、必ず浅瀬に乗り上げた船のように、私の視線と意識は前に進まなくなってしまった。
読んでいるこちら側が気恥ずかしくなったり、わけがわからなくなったりで、いつも途中で放り投げてしまった。
それでも思いついた時にまた目を通すので、『いつも途中で放り投げてしまうが気になっている』という感覚である。 私の中でこの感覚の文章がもう一つあった。『かしわばやしの夜』という宮沢賢治の童話であるが、これも読んでいるこちら側が気恥ずかしくなったり、わけがわからなくなったりで、『いつも途中で文庫本を部屋の隅に放り投げてしまうが、気になっている』作品で、どこか深いところでつながっているような気がするのだが、私だけだろうか。
また、1980年前後、谷川晃一はこの一章をあたかも視覚化したような絵を描いた。(『反核異論』(吉本隆明)のカバー絵)
その絵は生き生きとした個々の関係性を奪われ、出口の見えない人々が劣化した薄赤緑色で描かれている。皆同じ方向に歩まされ、黒マスクの下の苛立ちは一杯のアルコールで噴射している。逆らって反対方向を向いたものはコンニャク人間とされ、沈黙した電球の明かりは赤錆色を微かに放つ。ここには窓がない。
ピカソの『ゲルニカ』には窓があり、ランプと、電球は闇を照らし、コントラストがあった。谷川晃一のこの絵は光もないが闇もない。世界は薄赤緑色で覆われているが、かろうじて反対方向を向いた谷川少年が袋をかぶりこの世界を脳裏に焼き付けている。 ピカソの『ゲルニカ』は戦後、世界の『飾り』となったが、30年前に谷川が描いたこの絵は、まぎれもなく今、日本の現実となっている。
茂木健一郎の『アハ体験』『アハ感覚』があるが、反対に この3作品は、差し詰め私の『うへー体験』『うへー感覚』である。 『アハ体験』は脳を活性化するといわれているが、『うへー体験』は脳を落込ませる。しかし、丹田のところまで脳は落込み、脳を熟成させる。
Beggars BanquetLPのライナーノート全文
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/9548/raina.html
------ライナーノートの書き出しと・・・後半を記す-----
『幾つかの夜があった。憎悪と寒さに満ち、しかもくぐもる黒い笑いに満ちた夜があった。何かを殺す為に街へ出て誰一人としていない路上でついに凍えるばかりの自分自身のオブセッションだけと出会った夜があった。・・・・・
・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・
・・・・・そうなのだ、今、本当の鏡を作り出さなければならない。奴等に奴等の顔を見せ、お前達の本当の顔を照らし出す鏡を・・・そして皆んなを毒のむちでたたき続けるのだ。さあさ カーニヴァルが始まるぜ。ちょっとは愛きょうをふりまいてやるさ。陽気なカ−ニヴァルをおっ始めるぜ。欲しいものは何でもやるぜ。ここにはごみからくそまでそろっているからな。 でもまちがっちゃいけない。ここは地獄なんだ。地獄のかまどを開くにゃにぎやかさと笑いというものが必要なのさ。さあどんどん入ってくれ。地獄という奴は相手を選ばないのが上品なエチケットなんだ。俺をふくめて相手かまわず それはこんがりと焼いてくれるさ。そんなのがいやだって。冗談だろ。お前達のいたところは実はずっと前から地獄だったんだから。さあさあカーニヴァルだよ。地獄のカーニヴァル、そいつはとっても健康にいいぜ。出張サ−ビスもありだよ。とことんめんどう見がいいぜ。お前はもう特別に登録ずみだ、さあ堕ちてくれ。ぶつかる心配はないよ。だってそこは底なしなんだから。』
------以上ライナーノート第1章-----
『間章』は後半で、カ−ニヴァルという言葉を4度使っている。
港町新潟は実はずっと前から『地獄のカ−ニヴァル』であったのだろうか。
ただ、天空の風と信濃川の大河と大海原の存在がかろうじて人々の発狂を抑えている。
そんな港町新潟は、ときに八一や安吾を生み、ときに五十嵐一を、ときに『間章』を生んだ。
いずれも寄居浜を散策し、こぼれ落ちる砂の感触に言葉をさがした。
そんな寄居浜にはホンダワラに混じって世界の劣化した物たちがたどり着つく。
腐ることのない容器。 見知らぬ異国の文字は汀を埋め尽くし、遊び烏はそれを啄ばむ。
千年待ち望む藤壷は言葉を忘れ、舟虫は今日に鳴く。
波は飽きずにテトラポットを洗い、産卵の水蛸は樹脂の器を抱いている・・・。
『間章』没後30年がたった。こんな寄居浜は『間章』にはぴったりだったが、日本海の荒波は今も変わらず大地を犯し続けている。 この斜面も少しづつ侵食され、何度も崩れた。
犯され、生まれ出てきた子供たちがこの斜面を横断する時、はたして、流木の影の新しい存在の露頭を発見するのだろうか。 言葉を啄ばんだ遊びカラスと新しい詩(うた)を歌うことが出来るのだろうか。
チラシ担当 志賀恒夫 2008年
*** チラシの写真の背後の斜面に青山真治監督の顔が二つある。 酔怒を恐れず忍ばせておいたが、『存在の露頭』を発見しても『アハ体験』ではなく、そこはやはり『うへー体験』だ
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*五十嵐一/新潟市寄居町近く生まれ、(1947年〜1991年)「悪魔の詩」翻訳後、1991年に筑波大学構内で惨殺された破天荒の天才。イスラーム過激派かイスラームを貶(おとし)める某国工作員のしわざか、迷宮の底にある。
映画『AA』新潟上映実行委員会